自己満足の世界

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2/28(土)

「やじうまWatch:発言小町「Twitter中毒の夫に不快感」の相談とその大いなる反応 」
>するとさっそく、はてな匿名ダイアリーに「発言小町中毒の嫁に不快感」と題した、かの相談をテンプレートにした言い換えが登場。
 だから、この奥さんの不快感は「プライバシーを侵害された」ところから来るのではないので「小町に書き込んでいる時点でどっちもどっち」と言う批判は的が外れているし、このように「Twitter」と「発言小町」を入れ替えて悦に入るような人間は解っているつもりなのかも知れないが何も解っていない。
 恐ろしいと思ったのは、この妻が不快感を発言小町にて伝えたにも関わらず、読者の少なくない層はその不快感を完全に読み違えていること。
 これはつまり、仮に、私が昨日書いたとおりにその不快感を妻が夫に伝えたとしても、正しく伝わらない可能性が少なからず存在すると言うことを意味する。
 その恐怖については24日の日記でも書いた。

 不快だ、つらい、苦しい。だからやめて欲しい。それを言葉を尽くして伝えても全く意図が伝わらない。それどころか揶揄されたり「喧嘩を売られた」と逆上されたりする。その絶望が解らずにこの奥さんを揶揄している人間はその点において確実に(罵倒の意味ではなく)馬鹿だから、今すぐに馬鹿でなくなる努力を始めたほうが良い。


2/27(金)

「Twitter中毒の夫に不快感」
 この奥さんの不快感は「プライバシーを侵害された」ところから来るのではないので「小町に書き込んでいる時点でどっちもどっち」と言う批判は的が外れている。
 不快なのならそれを伝えるべきなのだがこの方はそれをしていない。伝えなければ伝わるわけがないのに。
「私もうまく説明しようがなく」というところから見るに、少なくともこの奥さんは普段から「説明が出来ない不快感」を夫に伝えることをしていないようだ。
 それだと妻は不満が蓄積せざるをえないし、夫は妻が不機嫌になるしその理由も判らないしで当惑する。恐らくこの夫婦は根本的なところでコミュニケーションロスが生じていると思うが、このケースでは行動を起こせるのは妻側しかない(夫側は問題を認識し得ない)。それをせず定年頃になって「私はずっと我慢してきた」と三行半を突きつけるのも妻の勝手ではあるし、それはそれで良く聴く話でもある。


2/26(木)

「首相訪米 中・ロ紙「冷遇された」、英紙ほとんど報じず」
 今日の朝日新聞朝刊には、米国は麻生首相を「異例の厚遇で迎えた」と書いてあった。
「異例の厚遇だけど、それは麻生個人には関係なく『日本の首相』だから厚遇したんだよ」という趣旨の記事だったが、中露が「冷遇した」と書いたら翻ってこういう記事を書いてしまう、と言うのはスタンスが明確で良いね。
>一方、中国共産党機関紙・人民日報系の「環球時報」は「麻生首相の訪米は冷遇された」との記事を掲載。
「環球時報」英語版の記事にはこれに該当する記述はなかった。
「朝日や毎日の調査によると、麻生は国内では不人気らしい」と言う記述はあったけれども。


2/25(水)

「アナザーコード,アナザーコード:R 記憶の扉」
 私がDSを購入したのは「アナザーコード 2つの記憶」をプレイするためだ。
 で、これはWii対応。さて、買わにゃ駄目ですかね。他にも「428」なんか評判が良いらしいけど……。

「【深海ヤバイ】透明な頭をもつ深海魚デメニギス公開」
 私は海が怖い。
 海を泳いでいてもし一メートルくらいの魚に出くわしたらパニックを起こして溺れる自信がある。
 それどころか「大きな水たまり」が怖い。
 小さい頃水泳を習っていたのだが、「背泳ぎ」をするのが怖かった。背泳ぎの時は水面下が見えないので、その時だけ何か得体の知れないものがプールの底に出現するような気がしたのだ。同じく水泳を習っていた兄も全く同じ妄想をしていたと後で聴いた。
 それはともかくリンク先、412の動画が凄すぎる。数度見直したがキツネにつままれたような気になるな。


2/24(火)

「近所が自転車盗まれたても、相当離れてるけどジュース置いたら逮捕w」
 これは恐らくネタなんだろうけれども、もし本気なのだとしたら恐ろしすぎる。
「一体何が恐ろしいの?」と思う人は、言葉を尽くして伝えようとしても全く意図が伝わらない、と言う状況を想像してみれば良い。
 単語単位での言葉は通じるけど意味が全く通じない。これは恐怖か、そうでなければ絶望以外の何者でもない。


2/23(月)

「A2009-02-23 - Doubletのちょっとピンボケ:ねこの博物館」
 「ねこの博物館」。ああ、行きたいねえ。
 私は猫好きではないが、一般論として、猫科の動物というのはフォルムが洗練されているね。トラにしろチーターにしろヒョウにしろ佇まいが美しい。

「ドラッグ&ドロップでファイルのアップロードができるようになるFirefox拡張『dragdropupload』」
 OperaからFireFoxに乗り換えてしばらく経つが、若干の不便さはあるものの特に違和感なく使えている。
 このプラグインも、役に立つ場面がどれだけあるかは不明ながら、確かに便利そうな予感はある。EeeStorageで使うと便利かも。


2/22(日)

外交の舞台に適さず?平山画伯の絵に自民会議で批判の声
 私は平山郁夫氏の絵は解らないのだが、外務省に国のルーツを示す絵が飾られているのはごく自然だし、国生みに北海道や沖縄が描かれていないのもごく当たり前だ。これは「私はそう思う」というレベルではなく「そんなの当たり前だろ常識的に考えて」のレベルじゃないかと思うのだが。
 と言うわけでこんなクレーム付けたのは誰か知りたい。


2/21(土)

 高槻市立しろあと歴史館へ。
 無料施設なのであまり期待していなかったのだが、実際行ってみて吃驚した。規模は小さめながら、模型やジオラマを多用した今風の「アミュージアム」指向の堂々とした展示だ。
 ただ、「しろあと歴史館」だからなのか、それともそれ以外に特筆するところがないからなのかは解らないが、対象となっているのが江戸時代のみ。
 テーマを絞るのはアリだとは思うのだが、それにより特に何を見せたいのか、と言うところが明確になっていない印象を受けた。基本的に、大坂-京都間の宿場町として発展した、と言う事実をまず前提として伝えた上で、それ以上の情報はそれに付随するものとして伝えるべきではないかと思う。

 対象層は、高槻市民、小学生以上。高槻市民じゃないとたぶんピンと来ないと思う。
 図録は500円。
 所要時間は30分~1時間程度。

 で、その後は高槻市立歴史民俗資料館
 ここ、「資料館」と言うか、公園の中にどかんと民家が設えてある、という感じ。印象は日本民家集落博物館に近い。と言うか、ぶっちゃけて言うと北淡歴史民俗資料館の方に近い。どう違うかというと、生活感があるかないか。この高槻市立歴史民俗資料館、古民家の移築展示なのだが、妙に生活感がある。普通に電灯が点いてるし、コタツがあってホットカーペットが敷いてある。民家集落博物館はあまりこういう見せ方はしない。

 対象層は、しろあと歴史館と同じだと思う。
 所要時間は10分~30分程度。


2/18(水)

「Always on the side of the egg - Haaretz - Israel News」
 昨日の続き。
 村上春樹のエルサレム賞スピーチの原稿全文らしい文章を見つけた。

 誰かがほかに訳してくれるだろうと思ったけれども、これはぜひとも自分でも訳したいと思ったのでまた訳してみた。
 抄録では一部不明確だった部分が明確になっている。昨日私がちらと書いたことは的外れではなかったようでうれしく思った。

 把握している限りの別訳はこちらに。

常に卵の側に
村上春樹スピーチ全文和訳Ver.1.2 - しあわせのかたち

「常に卵の側に」

 村上春樹

 今日、ぼくは小説家としてエルサレムにやってきました。小説家とはつまり、嘘つきのプロのことです。

 もちろん、小説家だけが嘘をつくのではありません。みなさんご存知の通り、政治家も嘘をつきます。外交官や軍人もときどき必要に応じて嘘をつきます。車のセールスマンも、肉屋も建築家もそうです。
 でも、小説家の嘘はちょっと違います。小説家が嘘をついても誰もけしからんとは思いません。それどころかむしろ褒められるのです。嘘が大きければ大きいほど、巧妙であれば巧妙であるほど、読者や批評家に褒められます。なぜでしょうか?


 ぼくの答えはこうです。小説家はうまい嘘をつく、と言うことによって、つまりもっともらしい作り話をするということによって、真実を新しいところに持ち出し、新しい角度から光を当てることが出来るからです。たいていの場合、真実のありのままを把握することはまず不可能です。だからぼくたちは隠れたところにある真実をおびき出し、それを作り話の場所に移しかえ、作り話の形に置き換えることでその尻尾をつかもうとするわけです。でも、そのためには、まずはじめに、ぼくたちの中のどこに真実があるのかをはっきりさせる必要があります。これが上手に嘘をつくための重要なポイントです。

 でも、今日、ぼくは嘘をつくつもりはありません。ぼくは出来る限り正直になろうと思います。ぼくがひとにそうお約束するのは年に何日もありませんが、今日はそのうちの一日です。

 ですから、本当のことを言わせてください。
 かなりたくさんの人たちに、エルサレム賞を受けるためにこの場に来るのはやめたほうがいい、と言われました。もし来るのなら、ぼくの本の不買を呼びかけるつもりだと言う人も何人かいました。

 その理由はもちろん、ガザで起こっていた猛烈な戦闘です。
 国連の報告によると、封鎖されたガザ地区で、1000人以上の人々が命を落としました。その人々の多くは非武装の市民、つまり子供やお年寄りでした。


 受賞の知らせを受けてから、こんなときにイスラエルに行って文学賞を受けることがはたして良いことかどうか、ぼくは何度も自問しました。
 紛争の中で、ぼくがある一方を支持したように印象付けてしまうのではないだろうか? 圧倒的な軍事力をふるうことにした国の政策を容認したように思われてしまうのでは? と。
 ぼくはもちろんそんな印象を与えたいとは思っていません。ぼくはいかなる戦争にも賛成しませんし、いかなる国も支持しません。それにもちろん、ぼくの本が不買されているのも見たくはありませんし。

 でも、ぼくはじっくり考え、結局来ることに決めました。
 そう決めた理由のひとつはたぶん、あまりに多くの人たちに来ないほうが良いと言われたことです。
 たいていの小説家もそうですが、ぼくは人に言われたこととはまったく反対のことをするのが好きです。皆が「あそこに行くな」「そんなことはするな」とぼくに言ったなら、ぼくは「あそこ」に行ったり、「そんなこと」をしたりしたくなります。そう警告されるようならなおさらです。それがぼくにとってはごく自然なことなのです。小説家らしい、と思われることでしょう。小説家は特別な種族です。小説家は自分の目で見たり、自分の手で触れたことでないと信じることが出来ないのです。

 ぼくが今ここでこうしているのは、そういったわけです。ぼくは欠席するより来ることを選びました。見ないことより見ることを選びました。何も言わないことより、ここで皆さんに話すことを選びました。


 これは、ぼくが政治的なメッセージを伝えにきた、と言うことではありません。もちろん「正しいこと」と「間違っていること」を判断することは、小説家のもっとも重要な義務のひとつではありますけれども。

 しかし、どのような形でそうした判断を伝えるかは、それぞれの書き手にゆだねられています。ぼく自身は、物語、それも非現実的な傾向の物語に昇華させることが好きです。この場で皆さんに政治的メッセージを伝えないのは、そういった理由からです。

 けれども、とても個人的なメッセージをひとつだけ、伝えさせてください。これはぼくが作り話を書くときにいつも気をつけていることです。ぼくはそれを、紙に書き留めて壁に貼る、と言うよりむしろ、心の壁に刻み付けている、と言ったほうが良いかもしれません。それはこんな感じです。

「頑丈で高い壁と、それにぶつかって壊れる卵があるのなら、いかに壁が正しく、いかに卵が間違っていようと、ぼくは卵の立場に立つ」

 そうです。
 いかに壁が正しく、いかに卵が間違っていようともです。ぼくは卵の側に立ちます。
 ほかの誰かが何が正しくて何が間違っているかを決めなければならないかもしれません。でもそれはたぶん時間や歴史が決めてくれるでしょう。どんな理由であれ、壁の立場に立つ小説家がいたとして、その作品に何の価値があるでしょうか?

 この暗喩の意味は何でしょう?
 いくつかの場合では、まったく単純明快です。爆撃機や戦車やミサイル、白燐弾は高い壁です。それらに壊され焼かれ撃たれる非武装の市民は卵です。これは暗喩の意味の一つです。


 でも、これがすべてと言うわけではありません。より深い意味を持っています。
 こんな風に考えてみます。
 ぼくたち一人ひとりは多かれ少なかれ一つの卵です。ぼくたち一人ひとりは壊れやすい殻の中に固有のかけがえのない魂を秘めた卵です。これはぼくにとって真実だし、みなさんにとってもそうです。そして、ぼくたち一人ひとりは、程度の差こそあれ、高く堅い壁に立ち向かっています。その壁には名前があります。「システム」と言う名前が。
「システム」はぼくたちを守る手助けになります。でも、時にはそれ自身が命を持ちはじめることがあります。そうなると、「システム」はぼくたちを殺し、ぼくたちがほかの人たちを殺す理由にもなります。「システム」はそれを、冷徹に、効果的に、組織的に行わせるのです。

 ぼくは、たった一つの目的のために小説を書いています。それは、ひとが持つ固有の魂の神性に輝きをもたらすことです。物語の目的は、「システム」の網がぼくたちの魂を絡めとり貶めることのないように、警報を鳴らし光を当て続けることです。
 ぼくは完全に確信していますが、小説家の仕事は、人一人ひとりが持つ固有の魂を、物語を書くことで明らかにすることです。それは生と死の物語であったり、愛の物語であったりします。それを読んで、人は泣いたり恐怖に震えたりひっくり返って大笑いしたりするのです。だからぼくたちは来る日も来る日も真剣極まりない態度で作り話をひねりだすのです。


 ぼくの父は、去年90歳で亡くなりました。父は教師を辞め、ときどき僧侶として働いていました。彼は大学院にいたとき、陸軍に徴兵され、中国との戦争にかりだされました。戦後生まれのぼくは、父が毎朝、朝食前に家の仏壇に向かって熱心にお祈りするのを目にしたものです。あるとき、ぼくはなぜお祈りするのか父に訊きました。父は戦争で亡くなった人たちのために祈るのだと答えました。

 父は言いました。すべての人のために祈るのだと。敵だろうが味方だろうが、戦争で亡くなったすべての人たちのために祈るのだと。
 仏壇の前にひざまづく父の背中を見つめながら、ぼくは彼につきまとう死の影を感じました。

 父は亡くなり、父は自分の記憶もすべて持っていきました。ぼくは彼の記憶を知る由もありません。でも彼の中に潜んでいた死の存在は、ぼくの記憶に残っています。それはぼくが父から受け継いだ数少ないもののひとつであり、もっとも重要なもののひとつでもあります。

 今日ぼくは、たった一つのことを皆さんに伝えられたらと思います。
 それは、ぼくたちはみな人間であり、それぞれが国や人種、宗教を超えて固有の存在であり、「システム」と言う堅い壁に直面する壊れやすい卵でもある、と言うことです。
 どう見ても、壁に打ち勝つことなどかないません。壁はあまりに高く、強く、冷たいからです。どうにか希望を見出そうとするなら、とにかくぼくたちの魂が完全に固有でかけがえのない存在であることを信じ、ぼくたちの魂を繋ぎ合わせてぬくもりを得なければなりません。


 そのことについて、少し考えてみてください。ぼくたちはそれぞれ明確な、生き生きとした魂を持っています。「システム」にはそんなものはありません。ぼくたちは「システム」がぼくたちを悪用するようなことを許してはいけません。「システム」が命を持ちはじめることを許してはいけません。「システム」がぼくたちを作ったのではありません。ぼくたちが「システム」を作ったのです。

 今日言うべきことはこれでおしまいです。

 エルサレム賞をいただけたことを光栄に思います。ぼくの本が世界中の多くのところで読まれていることを光栄に思います。今日ここで皆さんにお話しする機会に恵まれて、とても嬉しく思います。



2/17(火)

「Murakami, in trademark obscurity, explains why he accepted Jerusalem award」
 エルサレム賞を受賞した村上春樹のスピーチ(抄)。

 日本語だとだいたいこんな感じ:

 そんなわけで、私はエルサレムにやってきました。小説家、つまりは嘘の紡ぎ手として、です。

 ただし、小説家だけが嘘をつくというわけではなく、その点では政治家も同じです(すみません大統領)。外交官も同じです。
でも、小説家の嘘はちょっと違います。私たちは嘘を責められることがありません。むしろ褒められるのです。大きな嘘をつけば付くほど、私たちは褒められます。

 私たちの嘘とそのほかの嘘との違いは、私たちの嘘は、真実を明らかにするためのもの、であることです。真実のありのままを把握することは難しいです。だから、私たちはそれを作り話の領域に移しかえます。でも、まずはじめに、私たちの作り話の中のどこに真実があるのかを明らかにしなければなりません。

 今日、私は真実を語ります。私がひとにそうお約束するのは年に何日もありませんが、今日はそのうちの一日です。

 今回の賞を受けるか訊かれたとき、来るときには気をつけるよう言われました。ガザは戦闘状態にあるからです。私は考えました。イスラエルに赴くことは正しいことだろうか? ある一方を支持することにならないだろうか?

 私はしばらく考え、来ることに決めました。たいていの小説家もそうですが、私は人に言われたこととはまったく反対のことをするのが好きです。それが小説家としてはごく自然なことなのです。小説家は自分の目で見たり、自分の耳で聞いたりしたことでないと信じることが出来ません。だから私は見ることを選びました。何も言わないことより、ここで話すことを選びました。私が今ここでこうしているのは、そういったわけです。

 頑丈で高い壁と、それに立ち向かって壊れる卵があるのなら、いかに壁が正しく、いかに卵が間違っていようと、私は卵の立場に立ちます。

 なぜでしょう? それは、私たちはみな卵だからです。壊れやすい殻の中にかけがえのない魂を秘めた卵だからです。私たちはみな、高い壁に立ち向かっています。高い壁とはつまり、私たちを強制するシステムのことです。そのシステムのために、私たち一人ひとりが身の丈にあった当たり前な生き方をすることができないのです。

 私は、たった一つの目的のために小説を書いています。それは、ひとが持つ固有の神性を描き出すことです。それぞれに固有であることを喜べるように。システムが私たちを絡めとらないように。だから私は人生について、愛について物語を書いています。そうして人々に笑ったり泣いたりしてもらうのです。

 私たちはみな人間であり、それぞれが固有の存在であり、壊れやすい卵でもあります。壁に立ち向かうことなどかないません。壁はあまりに高く、暗く、冷たいからです。壁と戦うためには、ぬくもりや強さを求めて私たちの魂を繋ぎ合わせなければなりません。システムが私たちをコントロールするようなことがあってはなりません。他ならぬ私たちがそのシステムを作ったのですから。

 私の本を読んでくれたイスラエルのみなさんに感謝します。皆さんとなにか意義を分かちあえんことを。わたしが今ここにいるのは、みなさんのおかげなのです。

 私は村上春樹をあまり読んだことがなく、云々するのもどうかとは思ったけれども、これはとてもひとに伝えたくなる内容だと思った。だからわざわざ訳してみた。たぶん致命的なニュアンスの取り違えは無いと思う。

 個人的に「wall」を「権力」に誂えるのは必ずしも正しくないと思う。「wall」はあくまで「system」であり、それは必ずしも「権力」が作り上げるものではない。たとえば「権力者」であってもそれは「私たち」の中の一人であって「壊れやすい卵」にすぎない。
 もちろん、あの場でわざわざこれを伝えたことは、その中に固有名詞をあてがう覚悟をもっておこなったのだろうけれども。

 ちなみに別訳は「村上春樹のスピーチを訳してみた(要約時点)進化版」「一斗缶 村上春樹エルサレム文学賞受賞スピーチ抄訳」「Kittens flewby me  村上春樹さんのイスラエル講演をハルキ風に和訳してみた」にもある。わざわざ私が訳すまでもなかったが、せっかくだから披露しておく。


2/16(月)

「IBM、飛んでくる銃弾を避けるリアル「ガン=カタ」スーツの特許を取得 - Engadget Japanese」
 どこの香具師の発明かと思えばIBMによる特許だということで二度びっくりだ。
 しかしアレですか。「銃弾を避ける」と言えば最近のヤングにとっては「ガン=カタ」ですか。リベリオンですか。
レモ/第一の挑戦」を思い出す私はマイノリティですか。映画見て感激して原作まで読んでしまった私は逝くべきですか。

 でもこれ、弾は避けられたは良いけど着用者がショック死、みたいな事態が続出するような気がする。注意書きに「弾は避けられますが着用者の無事は保障しません」とか書いてあったりしないのか。


2/14(土)

高島屋史料館」へ。
 行く前は「高島屋の歴史」関連資料で埋め尽くされているのかと思っていたのだが、実際はそれは半分程度。残りの半分は、収蔵している美術品等の展示で占められている。「史料館」なのか「美術館」なのかはっきりしない印象を受けた。
 で、私は所謂「アート」というものが解らない人間なので収蔵美術品の歴史的位置づけも全く解らず、何をどう見て良いのかが解らなかった。絵や陶芸を「ありのまま」評価しろ、と言うことなのかも知れないが、個人的には素人にそれを期待するのは無茶だと思うな。
 余談だが、全体的に「場所」の雰囲気が「貧乏人お断り」な感じで居心地は悪かった。
 あと、帰りのエレベータのボタンが反応せず仕方なく階段で降りたのだが、降りた先は「関係者以外立ち入り禁止」のエリアになっていて警備員に変な目で見られた。ならどうしろと言うのか。そんなわけでちょっと印象は良くない。

 所要時間は30分程度。
 対象層は……誰だろう。ちょっと解らない。

 で、その後は四天王寺へ。
 ずっと大阪、しかも天王寺区住まいだったにも拘わらず四天王寺には行ったことがなく、今日初めて行ってみた。
 中心伽藍を見て回ったのち、宝物館へ。
 国宝や重要文化財を多く所持していると言うことだが、その多くは「歴史的価値」に拠るもので特に美術的価値が高いとか言うわけではないようで、全体的に地味目ではある。展示手法もごくオーソドックス。ただ、質は高いのは確かで、特に聖徳太子関連資料は充実している。
 所要時間は30分~1時間程度。
 対象層は中学生以上。常識レベルの日本史を知っている人間なら実感を得られるはず。


2/12(木)

 ティラミス作成。

 土台部分にバンビーニを使ったらやけにヘニャヘニャになった。
 チーズもフランス産のクリームチーズを使ったので全体的になんだかフランス風。
(本来はバンビーニではなくサヴォイアルディ、クリームチーズではなくマスカルポーネチーズを使う)

 たぶんわざわざサヴォイアルディを買ってくるより、自分でスポンジ焼いたほうが安いし美味しいと思う。

#正直、バンビーニ使ったやつより食パン使ったやつの方が美味しかった。
#それに、オーブン使わないとあまり料理した気にならんし。


2/10(火)

 録画しておいた「テレビ朝日が伝えた伝説のスポーツ名勝負~いま明かされる舞台裏の真実」を見た。
 中山律子とかアントニオ猪木とかは個人的にどうでも良くて、見所は「10.19」のロッテ近鉄戦。
 やはり今見てもあの試合は凄いね。結果が判っているにも関わらず、見ながら叫んだり手を打ったりしてしまった。
 当日の大阪は異様な雰囲気だった。夕方、町から人の姿が消え、どこからともなくラジオの野球中継が聞こえてきた。あの試合は近鉄ファンはもちろん、野球のルールさえ知らない人すらTVに釘付けになっていた、と後で聞いた。


2/9(月)

「Windowsが起動したままの状態でハードディスクをまるごとイメージ化できるフリーソフト「Macrium Reflect FREE Edition」 - GIGAZINE」
 んー、なんだか便利っぽい。でも良く考えたら環境全体のバックアップってあまり使わないなぁ。自作データやメールはだいたいバックアップ取ってるし。それ以外のアプリなんかはインストールしなおせば良いだけの話だし。

「高島屋史料館」
 今日初めて存在を知った。近日中に行く。

 あと、大阪府内の市ごとに存在するはずの市立博物館も一通りつぶしていきたいなと思いはじめた。は行ったことあるけど、吹田高槻門真東大阪なんかは未開拓だし。


2/8(日)

 大阪くらしの今昔館へ。
 ミュージアムマニアの端くれとして企画展「今昔館のあゆみ」は見ておかないとなと。
 で、ボンヤリとした感想だが。
 今昔館というミュージアム、少なくとも最初の頃は「ハコモノありき」でスタートした印象は拭えない。正直大阪歴史博物館もそうだったが、最初の頃の企画展や特別展は「まあ大体こんな感じじゃね?」と言う感じの「ミュージアムの模倣」で成立させている印象を強く受ける。
 それがここ数年で「このミュージアムならでは」なことをやろうじゃないか、と言うモチベーションが芽生えたのか、あるいは人の入れ替わりがあったのか、ユニーク(「珍しい」ではなく「固有の」に近いニュアンス)な研究および展示が行われるようになった。つまり、「統合システムとしてのミュージアム」を意識するようになった(いや、あくまで個人的な印象ですが)。
 ただまあ、その内容がドメスティックなだけに、いささか他所の人間に薦めづらいところがあるのも事実ではある。営利を考えるならもっとアミューズメント性を高めるのも方向性のひとつであるのは確かで、さて今後どうなっていくのか注目する必要があるね、と個人的には思っている。


2/7(土)

 楽譜をタブレットで手描き入力できるシーケンスソフトって無いもんですかね。フリーであるのならタブレットPC購入するんですが。
 と言うのは、楽譜を入力して印刷したいんだけど、PCで楽譜の入力するのって案外面倒なのね。マウスで音符を置いていくタイプは意外とかったるいし、MMLでの入力は楽と言えば楽だけど直感的ではない(し、手軽に使えるソフトがない)し。

 そんな感じで、最近は本を読んだりキーボード弾いたりでミュージアム巡りは小休止気味。生活リズムが変わって外出しにくくなったという事情もありますが。今年は「巡る」より「整理する」のを重視しようかなと思い始めてます。


2/6(金)

 今日ヨドバシカメラで恵安のキーホルダー型デジタルフォトフレーム「KDPDK15」を見つけて衝動買いしてみたが、これが思いのほか良かった。


2009/2/6 デジタルキーチェーン


 もちろん、値段が値段だけに多くを求めると期待外れになるだろうが、割り切って使う分には全く申し分がない。以下、長所と短所を述べる。
長所:
・安い(実売2000円弱)
・そこそこの液晶画質(二昔前の携帯電話クラス。おそらくWILLCOMのnico.と同じ液晶と思われる)
・優れた携帯性(なにしろキーホルダー)
・ソフトウェアインストール不要
・画像転送ソフトが非常に使いやすい(どんな画像でも自由に編集して取り込める)
短所:
・安っぽい(プラスチッキー)
・画像がちょっとざらつく(減色されていると思われる(理由は後述))
・メニューの日本語が怪しい("virtual clock"→「模擬時計」は凄い)
・パッケージに嘘が書いてある(「カレンダー表示可能」とあるがカレンダ表示機能はない)
・簡易すぎる簡易マニュアル

 ところで同等の液晶を持つデジタルフォトフレームに、セガトイズの「DigiPod」やPricetonの「OVO」、海連の「Photty」があるが、これらとKDPDK15と比較すると、販売価格はKDPDK15が一番安い。
 DigiPodやOVOは据え置き用途をメインとしているらしいが、「Photty」とは外見もそっくり(と言うかたぶん全く同じ)でどう違うのか解りにくい。
 まず、結論を以下にまとめる。

 DigiPodOVOPhottyKDPDK15
売価\3000前後\4000前後\3000前後\2000前後
形態据え置き据え置きキーチェーンキーチェーン
最大画像枚数4310714352
電源単4USB充電USB充電USB充電
内蔵メモリ8MB2MB16MB1MB
画像色数65536?256?65536?256?

 据え置きが良いならDigiPodかOVO(あるいはもっと高級で質が良いやつ)、枚数が多い方が良いならPhotty、とにかく安いのが良いならKDPDK15。
 液晶の質や、メニュー・転送ソフトの使い勝手に全く差はない。
 ひょっとするとKDPDK15とOVOは表示可能色数が少ないかも知れない。

「表示可能色数が少ないかも」の根拠は以下の通り。
 まず、この液晶自体はWILLCOMの「nico.」と同じ物であるようで、この液晶の最大色数が65536なのでこれが上限(nico.の液晶はTFTではなくCSTNのような気がする)。
 で、KDPDK15の内蔵メモリが1MBで最大枚数が52枚、OVOの内蔵メモリが2MBで最大枚数が107枚なので一枚あたりの容量が20KB程度。
 画像解像度は128×128=16KdotなのでKDPDK15では1dotあたり1byte=8bit=256階調、パレット情報を加えておおよそ20KB弱に納めていると思われる。いずれにせよ(仕様の記述が正しいのであれば)256色より多いことはあり得ない。
 DigiPodやPhottyは画像一枚あたり100KB以上確保できるためこの制限は無いので65536色フルに使える可能性がある。飽くまで可能性なのでひょっとすると(ファームウェアまで全く同じなのであれば)KDPDK15/OVOと同じ可能性もあるが、それなら8MB~16MBものメモリを積む必要はないしな(あるいは8MB/16MBではなく8Mb/16Mbの可能性もある)。

 んなわけで長々と書いたが、これは個人的にKDPDK15をなかなか気に入ったのと、調べてみてもKDPDK15のレビューが全然無かったから。あんまし深く考えず衝動買いしても問題ない値段だとは思うが、迷っている方の参考になれば幸い。

 あ、あと、KDPDK15のマニュアルには書いてなかったけど。
 写真表示中に「UP」もしくは「DOWN」ボタンを長押しすると、画像と同時に時刻を表示することが出来る。これはOVOのマニュアルを見てて気付いた。ご参考まで。


2/4(水)

「小沢外交「政権取れば豹変」=民主・長島昭久氏インタビュー」
 残念ながら、今の民主党は駄目だ。

 確かに、現在の政権の状態を見るに、「とにかく政権交代が必要」と言うのは今の日本においては正しいかもしれない。
 しかし、現時点で民主党が政権を取ったらどうなるか。
 どう見ても現在の民主党には政権担当能力はない。
 かつての社会党のように、現実路線に転回した挙げ句、分裂して瓦解する可能性が高い。ひょっとするとしないかも知れないが、いずれにせよ博打を打つには分の悪い賭だと言わざるを得ない。
 その後に待っているのは、荒廃した社会と、国民に根付いた政治不信だけ。最悪の状況だ。
 そんなわけで、「二大政党制による政策の選択を行える社会」を目指すのであれば、今の民主党に政権を取らせてはいけない、と私は思う。

 じゃあ現実的な解としてどうするのが良いか、と言われると、たぶん自民と民主の大連立がベストだったと思う。これから本気で二大政党制に移行しようとするなら、自民が割れるか、自民と民主が連立するか、のいずれかのステップを踏む以外のシナリオが思いつかない。


2/3(火)

 昨日一昨日であわせて24時間くらい寝た。
 日曜に寝るのはまあ仕方ないとして、昨日も家に帰ってきてすぐ夜8時に床につき、そのまま翌朝8時過ぎまで目覚めなかった。
 何だろうね。やっぱ疲れが溜まってきてるのかな。