母親になること                  斑猫 賢二  先日、私は卵を産んだ。安産だった。  ここで断っておくが、私は間違いなく人間である。それに、人間はたしか胎生の生き物であったはずだ。実際、人間が卵を産むことができるという話は聞いたことがない。  少なくとも、学校ではそうは習わなかったし、知り合いも皆、赤ん坊を胎児の段階を経て産み落としている。出産のお見舞いで「あら、可愛い卵ですね」などとお世辞を言う機会もなかった訳である。  つまり、これは私にとって、まったくの晴天の霹靂と言ってよかった。  しかし、かといって、まったく前兆がなかったかというと、そういう訳でもない。  「ねえ、子供、できたかもしれない」  夕食の時に、さりげなさを装って夫にそう打ち明けたのは、その、ほんの二日前である。  「どうした。病院に行ってきたのか」  夫もさりげないふうに訊き返す。私は首を横に振った。  「ううん。まだアレが来ないの。本当なら先週来るはずだったんだけど、まだ」  「そうか」  「うん。明日にでも妊娠検査薬買ってくるわ」  結婚二年目の二十六歳。子供をつくる時期としては早すぎる訳でも、遅すぎる訳でもない。そろそろできる頃だろう、という予感があった。夫も同じようなことを思っていたはずである。そして、「妊娠」という非日常のイベントが、きわめてスムーズに私の日常に導入されていくはずだったのだ。  しかし、ことはそううまく行きはしなかった。私は昔、占い師に「波乱万丈の人生を送る」と断言された女なのだ。  それはその日の昼前、ワイドショーを見る合間に洗濯物を干している最中だった。  「痛っ……」  突然、下腹部から背中にかけて、強烈な痛みが私を襲ったのだ。  生理痛とは比較にならない程の痛みである。私は這うように部屋に戻り、まだ干していない洗濯物の山の上にうずくまることを余儀なくされた。  「これは産まれるな……」  本能的にであろう、私はそう直感して、それまでに暇になるたびにぼんやりと考えていた出産までの計画を、頭のなかで全部ご破算にした。  こんなに早いということは、死産だろうか。いや、そうでなくても、もしかしたら五十グラムくらいの超未熟児かも知れない。それに、たとえ元気に産まれてきたとしても、こんなに産まれるのが早いと、誘拐してきたのだと思われるに違いない。出産祝いは期待できそうにない。そしてわが家族は世間から後ろ指さされながらひっそりと生きなければならないのだ。  そんなくだらないことをことを考えているうちにも、陣痛は強まっていく。陣痛には強弱の波があって痛くないときには全然痛くない、というが、それは普通に胎児を産み落とす場合にしか当てはまらないらしい。私は救急車を呼ぶこともできず、ただ一人でころげまわって涙声でうめくしかなかった。  「痛い痛い痛いー」  夫は仕事に行っている。泣いてもわめいてもどうかしようがあるという訳でもないのだが、わめかずにはいられない。  一時間もそうしていたのだろうか。  ふいに、下腹部に何かがおりてくる感触があった。私は仰向けになって、お腹をバンバン叩きながら、きばることを始めた。大きく深呼吸を繰り返し、酸欠になるのを防ぐ。  それから産まれてくるまではあっけなかった。股関節が、大きな獲物を飲み込むニシキヘビの顎のようにはずれ、するっ、という感じで、私は握りこぶし二つぶんくらいの大きさの卵を産み落としたのだった。  普通の産婦は出産後ろくに動けないというが、やはり私は普通の出産の例があてはまらないらしい。私は卵を産んだ後、身体のだるさを感じるよりも、むしろ便秘が治ったときのようにすっきりして、大きく一つのびをした。そのまま眠ってしまいたかったが、そうする訳にもいかないような気がして、卵のほうに向きなおり、とりあえず様子を見ることにした。  象牙色のその卵は粘膜におおわれていて、叩くとコツコツとやや鈍く頼りない音がした。ウミガメの卵を大きくした感じ、と言えばわかりやすい。ニワトリやダチョウのもののように、卵とは乾いていて堅いものだ、というイメージがあった私には意外だった。   とにかく、この卵の置き場所を確保する必要がある。とりあえず私は、寝室の隅に座布団を二枚重ねて上にシーツをかぶせ、その上に卵を置くことにした。これなら卵が割れる心配もない。  この卵を夫に説明するのが一苦労だった。  「ねえ、あなた。大ニュースよ」  夫が帰ってくるなり私は玄関に駆けつけ、なるべく興奮を抑えるよう気をつけながらそう告げた。  「そうか。やっぱり出来てたのか?」  夫は落ち着いたようすで靴を脱ぎ、ネクタイをゆるめた。それはもう解っている、と言いたげな態度だった。  「いえ、違うのよ、ちょっとこっち来てよ」  私は夫を寝室に押しやった。そして、隅に置いてある卵を指さす。  「ほら、これ見てよ」  「なんだ、これ」  夫は今一つ反応に困ったようすで、卵に近づいてまじまじと見つめてみたり、ちょっとつついてみたりした。  「卵よ」  「うん。だから何の卵だ」  私はここで夫の眼をのぞきこみ、誇らしい笑みを浮かべた。  「これねえ、わたしのたまご。わたしが産んだのよ」  しかし、夫の反応は冷たい。私の眼を見ずに受け流す。  「そうかそうか。で、何の卵だ」  「あ、信じてないでしょ。本当なんだから」  「信じてる信じてる。お前が産んだんだろ」  投げやりにそう言った後、夫は続けた。  「子どもが出来たっていう話、どうなった」  「だから、これがそれよ」  「うーん、そうだな……」  夫はここで、私の様子が何かただごとではないと悟ったらしい。しばらく眼を閉じ、上を向いて何か考えていたが、すぐに眼を開け、私のほうに向き直った。  「つまりお前はこの卵をかえしたいんだな。何か面白いものが産まれるのか」  「うん、まあ、つまり、そういうことよ」  「悪いけど、俺はあまり手伝えんぞ。自分でやれよ」  「解ってるわよ」  私は完全に満足した訳ではないが、夫のこの態度は「理解ある」と言うべきであろう。卵を産んだということは信じてくれなかったが、卵をかえすことは納得してくれたのである。  そして、それから、卵と共存する日々が始まった。  とは言え、卵が産まれたからといって、少なくともはじめのうちは、生活にあまり大きな変化があるわけではなかった。赤ん坊のようにミルクをあげる必要も、おむつをかえてやる必要もない。私はそれまでと同じように、掃除、洗濯、食事の支度など、つまり普通の専業主婦の仕事、をこなしていればよかった。  しかし、変わったことがないのかといえばそうでもなかった。私がその変化に気がついたのは卵を産んだ次の日である。  それまで、昼の暇な時間はテレビを観る時間だった。別に、特に観たい番組があるわけではなく、何となく時間を潰すためにほかにすることがなかったのである。  卵を産んだ次の日から、その時間は昼寝の時間に変わった。  午前中に洗濯を終わらせてから、急に眠たくなる。そして私は寝室に戻って、卵を抱いて眠るのである。そしてそのまま、夕方まで眼が醒めない。そんな生活が続いた。  最初は、卵を産んで体力が落ちているからだろう、と思っていた。元気になったらすぐ元通りになるだろう、と思ってあまり心配はしていなかった。  しかし、一週間ほど経ってから、事態はより悪くなった。夕方に眼が醒めた後も、夕食の用意をしている間に眠くなってくるのである。私はあわてて食事を終わらせ、夫の帰りを待たずに寝室に戻り、卵を抱いて眠る。  これはおそらく抱卵本能なのだろう、と私は思った。  日が経つごとに、睡眠時間はなおも増えていった。一か月もした頃には、夫を送り出した後、洗濯をせずにまた眠りこんでしまう。掃除ができなくなる。そして、夕食を作らずに眠ってしまうことさえあった。よくないとは思いつつも、睡欲には勝てるはずもない。本能だから仕方がない、と自分に言い聞かせ、私は身体が眠りを欲するのにまかせ続けた。  そうして、三ヶ月ほどの時が過ぎたある日のことだった。  朝、眼が醒めると夫はすでに仕事に出かけた後だった。その前日の夕食も作ってはいなかった。その時の私の一日の睡眠時間は二十時間を超えていたのである。ダイニングテーブルの上に、「バカヤロー」と殴り書きされたメモ帳が残されていた。  その次の日は夫が仕事休みの日だった。  その日、とうとう夫の堪忍袋の尾が切れた。  朝、夫は卵を抱いて眠っている私の髪の毛を引っ張って叫んだのである。  「おい、起きろ! ちょっと話がある!」  まだ眼が醒めきらない私にたたみかける。  「一体どういうつもりだ、どれだけ眠ったら気がすむんだおまえは」  「うーん……」  「うーんじゃない。ひとの食事も作らず洗濯もせず掃除もせず。おまえは一日に一体どれだけ眠ってるんだ」  「二十時間くらい……」  「二十時間? なんだそれは」  夫は顔を真っ赤にして怒りつつも喋るときは言葉を選ぶ。なるべく口汚い言葉を使うまい、としているのがありありと解る。何か言いかけてはやめる、ということを何回かくりかえしてから、夫はやっと言葉をつないだ。  「おまえ、もしかしてそれって病気じゃないのか。医者に行ったらどうだ。おまえ、最近、様子がおかしいだろう。卵が産まれたとか言いだしたときからじゃないか……」  夫はそこまで言って、はっと何か気付いたような様子を顔に表した。そして、怒りを忘れたように、おそるおそる、ゆっくりと訊く。  「おまえ、その卵って……」  「そう、わたしが産んだのよ」  私はにこっと笑った。襲いくる睡魔が私を包んだ。意識が遠くなる。  「解った、好きにしろ」  遠くで、ため息と一緒に吐き出すような夫の声が聴こえた。  「ありがとう、あなた」  私はそう答えたが、夫に聴こえたかどうかは解らない。そのまま私の意識はぷっつりと途絶えた。  こんこん。  抱えているものの内側から突き上げてくる感覚で、私は眼を覚ました。夫が私の顔を覗き込んでいた。  「起きたか?」  「あなた……おはよう」  私の返事に、夫は苦笑した。  「おはようじゃないよ。おまえ丸一日以上眠ってたんだぞ。今はもう夕方だ」  「夕方って、あなた、仕事は」  「休みをとったよ。それどころじゃないだろう」  こんこん。  また、卵の内側から何か突き上げる感覚があった。  「あ、今、動いた! 卵が動いたわ! もうすぐ産まれるのよ!」  「そうか、もう少しか?」  「あなた、信じてくれるの? わたしのたまご」  「もうこうなったら、信じたフリでもしなきゃ仕方ないだろう」  怒ったような笑ったような微妙な表情で夫は言った。  「そのかわり、何が産まれるのか、しっかり見届けさせてもらうぞ」  「解ってる」  とりあえず私は卵から離れたところで様子を見ることにした。産まれる間際まで卵を抱いているのはよくないと判断したのである。  抱いているときは卵の動きを身体で感じることができたが、離れてみると、動きは弱々しすぎてよく解らない。私と夫はわずかな動きでさえ見逃すまい、と、二人並んで正座したまま、無言で卵を凝視し続けた。  しばらくすると、卵は眼に見えて揺れ始めた。  「ほら、揺れたわ、今」  夫にそう伝えるまでもなかった。卵はもう、下に敷いてあるシーツごと、震度2くらいの地震が起こったときのように派手に震動していた。カタカタカタ、と静かな音が断続的に響く。  ふいに、ぴしっ、と微かな音がした。黒い線のようなひびが、象牙色の卵に一瞬にして刻まれる。  私はあっ、という声をすんでのところでかみ殺した。夫も同じようにしたことは、異様な空気が一瞬だけ張りつめたことで解った。  中のものが頭を持ち上げるようなかたちで伸び上がり、卵を突き破ったのだ。くしゃっ、という感じのたわいない音がした。  その顔は普通の人間より大きな眼をもち、髪の毛を持っていなかった。そのかわりのように顔じゅうに生えた薄い産毛がぬれて寝室の蛍光灯の光をはねかえしていた。  それはまだ開かない眼を私達のほうにむけ、口を開けて、少し震えた。ぐう、という声をあげてから大きく息を吐く。  それは、一度首をけだるそうにのばしてから、私と夫が凝視する前で、自分を覆っている卵の殻を食べはじめた。うずくまるようなかたちになって、自分の正面からどんどん食べすすめていく。くちゃくちゃ、と音を立てながら、それは全身の姿をあらわにしていった。  顔だけではなく全身がてらてらとぬれた白い産毛におおわれていた。そして、腕のかわりに、鳥のような大きな羽根を持っていた。その羽根の先にある不器用そうな四本ずつの指で、卵の殻を押さえるようにしてむさぼり食い続ける。  「これ……本当にお前が産んだんだな……」  夫がその様子を凝視しながら呟いた。私はなぜか嬉しくなって、微笑みながら答える。  「そうよ、私が産んだの。私の子ども、いえ、わたしたちの子どもよ……」  私の子供は卵の殻を食べ終わり、満足そうに伸びをした。そして、両方の羽根を左右に伸ばし、首を傾けながら、二、三度ばさばさとはばたいた。黒目の目立つ眼を半分くらい開け、私のほうに向き直り、鱗のようなものが見える貧弱な短い足でよちよちと歩いた。私に向かって笑うように口を横に広げ、キィ、という高い声をあげる。  「ほら、笑ったわ、いま。可愛いでしょう。羽根があるのよ、この子」  私はにこにこ笑って、夫の首に抱きつき、ひとつ、頬にキスをした。  「ねえ、まるで天使みたいでしょう」